奔るもの
086:終わるときは瞬きの間に、始まるときは永遠のようなもの
渡り歩く街の繁華街は特色を保ちながら似通った。樹林が豊富であれば木の実があふれるし水が豊かであれば魚が取れる。行き届いた街にはさらなる上昇を求める若人が集い、新しい集落を結成する。かつては自分もその一人であったとジュードは思い出す。医学を志し勉強に精を出す。寝台の上で資料や論文を広げては課題をこなした。こんな寂寥にとらわれるのは決まって街へ買い出しに行って、その土地の人々に触れるからだ。目的があって選んだ旅であるはずなのに時折、もし、などと考えてしまう。
「あらかた終わったな」
高いような低いような声にジュードの肩がびくっと跳ねる。荷物を確かめているアルヴィンはすぐに露店や道具屋を冷やかす。砂糖菓子や蜜菓子、軽食がとりどりに並んで人々はそれをてんでに持ち帰る。そのまま歓談スペースへ持って行って話しながら食べたり、自宅へ持ち帰って食事の足しにしたりする。
ジュードは少し慌てながら買い出しのメモと荷物とをつきあわせた。少しの期間歩くだけで荷物の減少や消耗のくせが見える。始めの頃は不測の事態に備えて荷物が多かったが慣れと同時に切り捨ても多く行われた。
「…えーと…」
「あらかた終わったって言ったろ。まだなンかある」
アルヴィンの抱えている荷物の方と照合する。不足は無さそうだ。
「よく覚えてるな、僕がずっとメモ持ってたのに」
「まぁなぁ。旅支度に必要なもんって結構しぼられるンだよな。面子で変わるけど共通して必要なもんはあるし。そこのあたり覚えておけばまぁなんとかなぁ」
なんでもないようにアルヴィンは言ってすぐにジュードのそばを離れる。この男、年上のくせに好奇心が強い。しかも衝動買いする。
「アルヴィン!」
気がつくと菓子など携えていたりするから油断できないのだ。きつく言い含めると腹が減っただの俺の財布から出すだの性質がわるい。しかも傭兵という経歴がそういうわがままを通させるだけの潤沢さがある。職業として報酬を獲得していた傭兵のアルヴィンのほうが、医学生として消費するばかりであったジュードより経済力が高い。金銭感覚も違う。
「カリカリすんなって。おーあれ美味そう」
往来の混雑など物ともしない。整然としたなかに籍を置いていたジュードなど時々倦む。往来の人々の流れは大蛇のようにうねりながら日々変化する。今日人だかりのできていた場所が明日もそうかは判らない。ジュードは結局メモの念入りな点検の方に集中した。街を出れば自給自足が続くので買い忘れが致命傷になる。補給アイテムや消耗品、場合によってはそれぞれの武器なども新調や調整をしなければならない時もある。今のところは大丈夫そうだ。武器も戦闘レベルとかけ離れてはいない。顔を上げたジュードはアルヴィンに声をかけようとして、怯んだ。
アルヴィンは傭兵であった経歴もあって男臭い顔立ちや体つきだ。しっかりとした眉筋。だが瞳が円い。玉の煌めきのそれはいつもジュードを魅了して、気づけば眺めている。見ているのが好きだった。朗らかで、でも飄然としたアルヴィンの真意はジュードがそうそうはかれるものではなかった。十も歳が違えば同等より格上としてみる。そのアルヴィンの顔が。
「……ぁ、る」
切ないような苦しいような嬉しいような悲しいような、でもそれが彼にとって絵空事であるかのような。羨望と嫉妬と憎悪と歓喜と。複雑に入り交じって入り組んだそれは屈折している。自分にとって身近であったはずのことが遠くなったとき。架空であるとさえ思えていたことが現実になった時。認識の差異がひどい時の惑いが見えた。ジュードはそのままアルヴィンの目線の先を素早く一瞬だけ追った。家族連れ? 傭兵だという経歴を見れば安穏と暮らせていたとは思えないか。安定した生活? 安心できる家族? アルヴィンは何を見て何を思う。
「アルヴィン?」
ジュードはわざと声を立てた。アルヴィンの目がジュードを映す。まずい、と思った時にはすでに悟られていた。アルヴィンはあっさりと家族の方に目線を投げる。ジュードがアルヴィンの目の先を追ったこともそれを隠したことも全部暴かれてジュードはただの幼いだけの子供になる。いつもそうだ。
「あぁいうカゾクってシアワセそうでいいよな」
嘘をつけ。罵りながらジュードはそうだねと笑った。その紅褐色の目はちっとも笑ってなどいない。そんなもの欲しがってない。アルヴィンは与えられることに対してひどく不慣れに見えた。ジュードの好意が施しや打算だと疑われたことなど数えればきりがない。無論、ジュードの方にはアルヴィンの中での自分の位置を上げたいという思いがあるからあながち間違ってはいなないのだが。だがもっと年少の、子供といって差し支えないほど幼い少女からのそれさえ疑うのは病巣があると考えていい。
人間は良きにつけ悪しきにつけ経験がモノを言う。好意を受けることに慣れた人間は受け取る際に態度が違う。学生という猶予期間といっていい位置にいたジュードはだからこそ、その上下を見つめてきた。医学を志すものとして基礎的な心理学も学んだ。アルヴィンは好意に対して不慣れだ。それがジュードの拙い感想であり結論だ。
「珍しいね、家族を気にするなんて」
「まぁなぁ…あそこに酒場があるからタマニハサケノミタイナーなんて」
嘘つき。言い訳が棒読みで、しかもそれがジュードにどう取られるかさえ計算された上でこの態度だ。ジュードは躍らされるだけのふりをして牙を研いだ。ジュードはおくびにも出さない。にっこりと、育ちの良さを見せる笑顔を見せる。そうするとアルヴィンが安心するのが判る。水面下での駆け引きに慣れているからこそ単調なものを捉えやすいとして歓迎する。
「僕も飲もうかな」
「おたく酒飲めんの? 酔っぱらい連れ帰るのはゴメンだぜ。ただでさえ荷物があンだから」
「そこはね、普通、成年じゃないだろっていうとこだよ」
アルヴィンがむっと黙る。アルヴィンがブツブツ言うのをジュードがクスクス笑う。
ジュードの琥珀の双眸がアルヴィンを映す。いつもどおりのいつもどおりの旅人で、いつもどおりのじゃれあいだ。アルヴィンもジュードも何一つとして手の内を明かさないし、少なくともアルヴィンはそれでいいと思っている。もういつからなのだろうと思う。アルヴィンが真意を話していないことに気づいた。問い詰めそうになるのを何度も堪えて殺して、振舞った。隠すほどのことを、ジュードのような年少者が問い詰めたところで吐くわけもない。ジュードの手がメモを握りつぶした。
「優等生」
それはアルヴィンの明確な揶揄だ。きっと顔を上げたジュードの頬にふわりと、触れた。アルヴィンの顔が違い。呆けるジュードに焦れたのかアルヴィンがベロッと頬を舐めた。
「えっわっわぁ!」
べーと舌を出したアルヴィンがほぇんとジュードを見つめる。ジュードは荷物を片手にまとめると頬を拭った。唾液がついてる。アルヴィンの唇から目が離せない。あれが、自分に、触れたのだ。そう思うだけで根底から燃え盛る焔に灼かれるような気がした。
「なんだよ、起きてるンじゃん」
「どういう意味?」
「なんか張り詰めてるような気がしただけ」
「舐めないでくださいッ」
ジュードはドシンっと荷物をアルヴィンに押しつけ先に立って歩いた。
「うおッ?! まてこらっ」
「しりません!」
荷物を落とさないように均衡を保つアルヴィンをおいて歩き出す。後から追ってくるのは判っていた。案の定アルヴィンは荷物を落とさずにジュードの後ろにくっついてくる。
「ナニ怒ってンの。イマドキらしくねぇなぁ」
「一度イマドキの定義について議論する必要がありそうですね」
「おたく、堅いね」
「アルヴィンが軽薄なんです」
つけつけと言い放つとアルヴィンが肩をすくめる気配がした。
荷物を抱えたまま文句さえも言わない。そのあたりがアルヴィンが歳上であることや己の幼さをつきつけられているような気がした。アルヴィンはジュードの後を追ってくる。人通りが少なくなっても。住宅地や庭先をかすめるような路地を通っても。両手を荷物で塞いだまま、アルヴィンはついてくる。その従順さがひどく、鼻についた。いつも僕なんか見ていないくせにどうして。ジュードがくるんと振り返る。上着の裾が空気をはらんではためいた。きゅっと靴底が鳴る音がする。
「アルヴィン。キスしてください」
アルヴィンが目を眇める。紅褐色が眼球いっぱいに広がるようだと思った。
「…別にいいけど」
アルヴィンが荷物を下ろす。ジュードの頬へ唇を寄せる。ジュードはわざとするりと抜けた。
「そこじゃなくて」
日がいつの間にか落ちている。薄暗がりの中でジュードの赤い唇が目立った。
「ここ、に」
指先が軽く唇を押した。紅く光る唇が歪む。アルヴィンが怯んだ。だがそれは一瞬ですぐにニヤニヤとした笑みが浮かんだ。
「…――いいんだ?」
「構いませんけど。それに」
ぼくはあなたが。言葉にならなかった。言ったらきっと後戻りはできないから。アルヴィンはきっと身を引く。僕の将来や性質や年齢から。迷いだと笑って忘れろと言うだろう。それはきっと、同衾しても同じ事。体のつながりなどアルヴィンはいつでも断てると思っているし断つだろう。
「してください」
僕は誰を相手にしてもあなたを譲るつもりはない。
唇が、重なった。アルヴィンのそれが乾いていることにジュードは笑んだ。おそらく女性が相手であればこんな不手際はないだろう。自分だから。そう思うだけで体の熱が燃える気がした。
「アルヴィン」
ジュードから唇を寄せた。離れようとするのを追って唇を吸い、舌を絡めた。熱い吐息が行き交った。ジュードの手がアルヴィンの頤を捉えて離さない。離すつもりもなかった。のらりくらりとかわすのがうまいアルヴィンをとらえるのは骨を折るのだ。その世渡りがどういう由来なのかジュードは知らない。知ろうとも思わなかった。ジュードにとって重要なのは、アルヴィンがどういう経路を経てきたかではなく、今のアルヴィンであるということのほうが大事なのだ。これまでさえも含めたアルヴィンがジュードは好きなのだ。過去さえも包括するつもりだ。
はふ、と熱い息が吐かれた。互いの鼻先をくすぐり、唇を湿す。ジュードは積極的に舌を絡めて唾液を吸い上げ、同時に流し込んだ。アルヴィンが浮かされたようにトロンとした目をする。半ば開いたままの唇を舐め上げてうそぶく。
「淫乱な人だ」
琥珀が煌めいた。互いの紅い舌先を銀糸がつなぐ。ジュードはすぐさま吸い付いた。
「ん、ぅ…ふ…」
艶めくようなアルヴィンの声にジュードは明確に下肢が燃えるのを自覚した。僕はこの人を犯したいのだ。過去も経歴も立場さえもいらない。この男を組み敷いて喘がせてぶち込んでやりたかった。鳶色の髪を掴んで引き寄せる。
「淫らな人だ」
言い聞かせるように明瞭とした発音を聴かせる。アルヴィンがなにか言う前に唇を塞いだ。言葉が喉奥に飲み込まれていく。アルヴィンが不服気なのをジュードが殺す。
べろり、とジュードの舌がアルヴィンの唇を舐った。
「アルヴィン」
「ぅわっ」
目縁まで舐めるのをアルヴィンが後ずさる。ジュードがくすくす笑った。頤を抑えているのでアルヴィンが逃げようがない。頬を包むように手を這わせてジュードは頬を寄せた。
「なに」
「可愛い、人だ」
触れ合う場所が熱い。アルヴィンが笑った。吐息が震える。丈もアルヴィンの方があるからジュードのほうへ屈む格好になるのだ。アルヴィンは猫のように頬を擦りつけてくる。ジュードの胸が高鳴った。アルヴィンがそばにいると思うだけで鼓動が早まる。ツゥと熱いものが触れる。それが落涙であると知るのは数瞬後だった。眇められたアルヴィンの双眸から一筋だけ、頬へ滑るものがある。水分で飽和
したそこの境界はふやけて情報が無作為に錯綜した。
「アルヴィン」
ジュードの声は静かだった。静謐な湖面の静けさのままにジュードは言葉を紡いだ。騒ぎ立てるのは得意じゃないし、好まれないと思っている。だからただ、静かに、一語一語を刻み付けるように深く。
「好きです」
アルヴィンの紅褐色が収束した。見開かれる双眸。わななく唇。けれど拒否も肯定も、なんの音さえも紡がれないそこは無慈悲に閉じた。ジュードの琥珀が眇められて潤んだ。
「ごめん」
離れた。アルヴィンは追って来なかった。
《了》